2013年5月20日月曜日

二七日を過ぎて。オルゴールを注文し、喪服を買い直した。

父が亡くなって、2週目。だんだん疲れと実感が出てきて、でも日常は日常に戻さないといけない時期。
たまった仕事がすすまない。オルゴールを注文することにした。
父が亡くなったときに、病室で流れていたモーツァルト。



事務作業手続きはいろいろと進んでは、いる。
私より詳しい妹が手配しているが、予想していたよりは多いけど、実際にもっとたいへんなひとがいっぱいいることもわかってきた。うちはスムーズなほう。
母が消耗してるようだ。少し痩せたかも。怒りっぽくなっている。

手続き関係、詳しくはまた別項で。

喪服も買い直しました。オールシーズン用に夏用。ものいりです。
I百貨店の店員さんがついでにあれもこれも買わせようというのにうんざり。ほんとうに悲しいときに買っているのだとしたら無神経きわまりない。もとは、地元百貨店なのに、店員の質が落ちたなあ…

で、おとうさん、仏さまになる、修行すすんでいますか。
妹が元気そうなお父さんの夢を見たってきいて、ちょっとふわふわ遊んでるのではないかと心配しています。

2013年5月8日水曜日

事前に用意しておけばよかったと思うこと。メモ(編集中)

5月8日、葬儀後2日目で思う、事前に用意しておけば、のこと。
亡くなることを前提にシミュレーションするのはためらわれるけど、きっかけを決めて定期的に考えておくのもいいのかなと。


●遺影
母にはだいぶまえから伝えていたし、選んだと聞いていたのだけど、ほんとうは決まっていなかった。ちゃんと確認して、すぐに手配できるような支度をしておけばよかった。
ばたばたしたなかで写真を探したり選んだりは難しい。
毎年記念写真を撮るようなご家族なら心配ないんでしょうけど。

●葬儀社
これはあらかじめ調べることがためらわれると思うけど、下調べ、下見はしておくのがいいかもと思った。自分たちは喪主の家の近くを選んで正解だったけど、どこで命を落とすのか、それはほんとうにそれぞれなので。
亡くなった時点で複数の候補を比較して決定する、というような、時間も判断力も余りない。親類からの意見も出る。

●親戚系の緊急連絡先
何年もあいだが開いて、連絡先がわからなくなっていることもあるけど、さすがにこういうときは連絡しなくては、となるので、メモくらいはどこかに記載しといたほうがいい。

●喪服
母のお下がりで済ませていたので、しょうしょう不便した。遺族なら2日間は着ているものだし、弔問客がくるときにご挨拶もあるから、自分にあったものを誂えておくことが必要だなと痛感。
靴、バッグ、地味なアクセサリー、数珠や弔いごとに必要な物品は、すぐにわかるところに置いておかねばなあと。若いうちは考えないけど、40代になれば増えますし。

●菩提寺
自分の家をまもってくれるお寺の詳細。正式名称、所在地、電話、宗派、住職の名前など。
急なときになかなか出てこない。これもふだんのお付き合い次第なのかなと思う。
子どもの世代だと知らないことが多いけど、知っておかねばならんなと

●現金
GW中に郊外の病院で夜間に亡くなった父。現金が手元になければ、タクシーで駆けつけたり、急なものをそろえたりするのに、難儀をする。
葬儀って思ったよりかかるものだし。GWということで普段より財布に入っていたのは助かった。

●手続き関係
…つづく。


2013年5月6日。三日目。葬儀、火葬、初七日、精進落とし。

5月6日(月祝)
世間ではGW最終日。葬儀の朝、妹も私も、やはりあまりぐっすりとは眠れなかった。
ベッドは寝心地よく、寝室も静かなのだが、そういうものなんだと思う。

7時ぴったりに朝食が運ばれてくる。
パン焼き器で作った、葬儀場スタッフお手製の米粉パンとコーヒー。
スタッフさんがこちらのコンディションを確認する意味もあるのかな。

※コーヒーは最初から、コーヒー専用のポットで作りたてを数時間おきに入れ替えてくれて、助かった。緑茶は、急須で使うパックのが準備されている。
台所は対面キッチンでシンク、大型冷蔵庫、電子レンジ、電磁調理器、電気ポット、コップ湯飲み類、割り箸等がしつらえてあって、少々の人数には対応できる。足りないものも訊ねたらたいてい持ってきてくださった。

※飲み物や菓子類を持ち込むように勧められた。小袋入りのがいいですよと。残ったものは持ち帰ってはいけないとネットに書いてあったので、置いて帰った。

9時におとき開始なので、8時くらいに母がやってくる。
死に装束の父の顔もだいぶ見慣れた。

9時おとき開始。

父のぶん、和尚さんたちのぶんも合わせてお願いするので、数を直前まで打ち合わせ。精進料理。朝食から時間が経ってないので、そうそう入らないが、疲れ気味の身体には美味しい和食。父の好きそうなものが多くてよかった。父の分は、棺の近くにおかれている。


おときを終えて、会場の様子を覗くと、導師(和尚さん)たちが来る前に家族で記念写真を撮りましょう、と担当者がいう。父の祭壇を背景にデジカメで記念写真。
1枚分は葬儀セットに含まれ、2枚以降は追加料金だそうである。3枚注文。



※7ー8枚わたしたスナップ写真は祭壇でスライドショー(memorialなるタイトル)になって流されるほか、A2サイズでアレンジされてパネルになって会場の入り口に飾られた。母のお気に入りの2ショット写真を中心に据えてもらった。


父の遺影は母の意向で、仕事での晴れがましい記念写真を使用。ふだん家での父の顔とちがうのだけど、いいのかな?母がそれでいいならいいんだけど。


10時半ごろになると、和尚さんとムコさん(住職と副住職)が到着。控え室でお着替え。葬儀は2人でお経を読んでくださることになっている。


11時、葬儀開始。母が少しそわそわしている。
祖父母の葬儀もおなじ和尚さんのお経だった。同じ声で送ってもらってるんだなあと思う。意味がわからないなりに、すこしずつ、こっちからあっちへ行くんだという実感が起きてくる。名前も、戒名になっていくわけだし。

身内だけなので、喪主あいさつもなく、焼香のみで静かに終了。

棺に花を入れる。花だらけの父。
タクトを入れる。あちら、あるいは、来世で成りたかった指揮者になってもらおう、と母の意向。ずっと探しても出て来なかった指揮棒が数日前に出て来たらしい。モーツァルトを聴きながら昇天したことだし、喜んでるかもしれない。

12時ごろ、出棺。
でかいリムジンで母と妹と従兄弟と、火葬場へ。
母・喪主 位牌、わたし・長女 遺影、妹・二女 骨壺(空の状態)で持つ。
※帰りは わたしが骨壺(骨入り)、妹が遺影。

福岡市の火葬場は初めて。刻の森という場所にあった、わりと近くて斎場から20分ほどで到着。あたりまえだが喪服のひとがたくさんいる。
福岡市の火葬場では、焼く場所の前まで家族は同行できない、手前の部屋でお見送り。なので、この部屋で焼きます、この番号を確認します、と説明がある。母がもう動けないので、妹と私が確認をする。

棺が運ばれていく。扉が閉まる。礼。

控え室に移動。ここで精進落としとしてお弁当をいただく。これは本来初七日のあとにするものを時間節約などのためにおこなう。最近はこういう形式が増えているらしい。

小一時間すごす。
山のうえなのでソフトバンクの電波が悪い。

14時半ごろ 収骨開始。
父の骨は病気していたわりには立派だった。99歳の祖父ほどはがっちりしていなかったけど、さいごけっこう粘れたのは、やっぱり身体の基本は強かったのかなあなどと感心する。

担当者の指示に従って、足、かかとのほうから頭へむかって、すこしずつ入れていく。
喪主が重要な部分を担当。近い立場から入れていく。
ぜんぶはもちろん入らないので、足、腰、肋骨、手、肩、など。パーツごとに少しずつ。
のどぼとけはキレイに残っていた。これをおしゃかさまにみたてて、骨壺の中央に置く。
頭蓋骨をかぶせる。目や耳のあたりも入れる。
わりとこんもり。いれおわる。

家族で骨壺に入っていないものをすこしもらって帰ることにした。分骨になるため、証明書が必要になる。担当者がその場で手配。
紙に包んで持って帰る。骨はまだ熱い。

帰りはマイクロバス。
16時ごろ再び斎場に到着。
GWの渋滞にも巻き込まれず、順調。

すぐに初七日を開始。
ふたたびの和尚さん。こんどは住職のソロ。
木魚と読経、リズムがここちいい。

17時前後
初七日を終えて、納骨や四十九日や仏壇などの説明をざっとされるが、さすがに、こちらもキャパオーバー。和尚さんが「御血脈」の図を見せ説明をしてくださる。仏の弟子になったのであると。

父の骨壺、位牌、遺影とともに、3日滞在した荷物、喪服、祭壇の花、受け取った弔電(ブリザードフラワーつき)などをスタッフの車で運んでいただく。
そのまま母の家の祭壇に、位牌、骨壺、遺影を飾る。電飾になるので、電源確保ですこしばたばた。
これからさきの話、とくに、役所の手続き、仏壇のことをスタッフさんから教えてもらう。

18時すぎに、いろいろ、終了。
母に、ろうそくはつけないようにと言い渡して、妹と、帰宅する。

5月7日は役所がGW明けで混むだろうから手続きをどうしようか、などと相談しながら帰る。ここからは事務的なことが暫く続く。
四十九日までに仏壇を整える、その打ち合わせは5月8日に予定する。

忌中になるので、個人予定のいくつかをキャンセル。自営業なので仕事はいちおうGW明けから予定どおりとする。
ほんとうにGW中に、ひととおり終わった。
お父さん、ありがとう。これから、ゆっくり悼みます。

葬儀一式の請求書は改めてスタッフが持ってくる予定。最初の見積もりから変更になっていることもいくつかあるし。

2013年5月7日火曜日

2013年5月5日。二日目。通夜。

5月5日(日)
朝 起きて「父が居ない、人生初めての朝」を感じる。
離れて住んでいても、思い出さなくても、父の存在が当たり前だったことを思い知らされる。

8時半ごろ、母と交代。朝食を買っていく。あまり眠れなかったもよう。
ろうそくを2時間おきに替えていたらしい。
ろうそくは消えてもいい、線香がついていればいい、ということを母は知らなかったようだ。渦巻きの線香が6時間くらい、もつ。
遺体を保護するため冷房が入っていて、すこし寒い。

9時ごろに担当者が来て、写真やCDを引き取っていった。
母いったん、帰宅。祭壇のための家のかたづけもおこなうため。
死亡確認のとき駆けつけてくれた父の兄(80歳前後)が体調を悪くしていると連絡が入る。長年疎遠であった、親戚の連絡先が飛び交う。

昼前、会場では隣の家の葬儀が始まり、人出がすごい。

13:30 湯灌
この葬儀社の葬儀のランクでいちばん違ったのが湯灌だった。
ポータブルバスタブを使う。からだを清めて、白装束を着せていただいた。
スタッフ2人で身体を洗う。死に化粧で頬がふっくら。
遺族が見るのがつらい処置については、注意をしてくださる。

18時 通夜開始
和尚さんの娘婿さんが執行。非常に響く声。
同級生の和尚さんがすばらしい戒名を付けてくださっている。
当の和尚さんはやや意気消沈しているとのこと、やはり同級生を送るということで。

近親者のみ。父の兄(伯父)が体調不良で欠席したり、遠方の親戚も高齢だったりGW中だったりで断ったため、ほんとうに少人数。大人数が苦手な父だったので、ゆっくりできたのがよかった。
お車代を渡す。

通夜食は巻物のお寿司。質素に済ます。
質素すぎてブーイングが出る。注文したときの説明をよく聞いてないひともいるということ。
ひさしぶりに会う従兄弟。

母は家で休む。
妹と私が宿泊。明日には父のからだがなくなる、最後の夜。
小袋入りの菓子や飲み物を持参してくださいと言われていた、それをちょいちょいつまみながら過ごす。
アルコールはまったく飲まないお通夜だった。

2013年5月4日、父が他界しました。その日。

昭和11年1月10日生まれの父が、満77歳で平成25年5月4日、他界しました。
父を見送る記録をつけていこうと思います。

じぶんたちも不慣れなことが多いので、参考になればと。

5月4日
未明 死亡確認(当直医)
父の耳元ではMOZARTのCDがかかっていた。

入院先で着替え、清拭
死亡診断書を受け取る。

遺族で葬儀社を選んで連絡(あらかじめ決めていなかった)
タブレット端末が活躍
喪主・母の家から近いところに決める。

4:30ごろ 遺体を運ぶ車が到着
早朝 遺体とともに葬儀社到着。遺族はタクシーなど
朝食 コンビニで購入 徒歩数分のところにあった

7:30 葬儀社担当者と通夜や葬儀の日程打ち合わせ、菩提寺への連絡(葬儀社が代行)
菩提寺の名前もうろ覚えだったので焦る。
葬儀の内容、金額、どこまで本人や喪主や遺族の意向を汲むか…
喪主は混乱しやすく決めにくい。
翌朝までに、通夜や葬儀で使う遺影写真やメモリアル用の写真用意(15枚くらい)
着せたい服はないか。棺に入れたいものはないか。

遺族が控え室にずっと詰めているため交代で自宅へ帰る
妹とお布施の金額についてネットで検索する。曹洞宗。
危篤連絡くらいから、寝ていない、いちばんのショックなこと(死亡確認)、初めてのこと(葬儀の段取り)、初めての場所が続くので消耗が激しい。

母をいったん家に帰すが、母は喪主で、自宅に「祭壇」をつくるため、葬儀社のひとが昼過ぎに自宅へ来ることに。家を片付けなくてはとプチパニック。
容態が悪い父を見舞っていたので、家のことは後回しであった。

予定15時→16時ごろ 枕経
父の同級生の馴染みの和尚さんなので、ひとあんしん。だみ声のお経を聴くと、父が旅立ちの支度を始めたことがわかる。このあたりで、やっと見送るという心構えがはっきりしてくる。
お車代を渡す。
どういう封筒(種類)、封筒の宛名などの書き方(表書き)、渡し方などを調べる。

この日は、喪主母が宿泊し、こどもは帰宅
控え室がきれいなビジネスホテルのようになっていて、宿泊用にしっかりしたベッドが3台あり、料金を取られなかったのは助かった。アメニティもトイレ浴室もけっこうキレイで広かった。担当のひとも基本おなじひとが対応してくれるのも心強い。

隣の部屋で60代男性の葬儀がおこなわれており、親戚や会社関係のかたで大人数だったけど、控え室が離れていたので静かに過ごせた。

病院は家族の控え室などがなく、状態が悪くなった最期のころは、近親者は精神面だけでなく、詰めていることや自宅往復などで身体的にも疲弊しきっているので、控え室がゆったりできたことは非常に有り難かった。